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画家への道

グェン・ディン・ダン

わたしは1958年、ハノイで生まれました。父は高校の数学教師、母は小児科医。絵は5歳ころから描きはじめました。わたしの家系に画家はいませんが、父はデッサンが上手でした。得意としたのは、剛勇無比のヘラクレスがネメアでライオンと格闘する図で、ほかにも古典に材をとった絵を黒板に描いてくれました。この父が、わたしに初めて、美術や算数、フランス語や英語を教えてくれたのです。

アメリカがベトナムに爆撃を開始したとき、わが家はやむなくハノイをあとにしました。そのころは生活も苦しい時代でしたから、スケッチをする白紙
すらありません。それでわたしは、父が学校から持ち帰った紙に、絵を描いて遊んでいました。

初めて油絵を描いたのは、1970年、粗い布にヨーロッパの一婦人をなんとか写し取ったのですが、絵はたちまち黒ずんでしまいました。キャンバスの下
塗りを十分に知らず、白い絵の具も足りなかったため、黄色の絵の具を使ったからです。なんとか仕上げ、ある画家に見せたところ、笑われてしまいました。「おやまあ、このご婦人を、結核患者にしてしまいましたね!」と。そのころわたしは、音楽の勉強も始めていましたが、音楽は今でもわたしの心を慰めてくれるものです。よくクラシック音楽を聞きながら絵を描き、ピアノも毎日のように弾いています。
 
当時のわたしにとって、決定的な影響を与えた二つの出来事がありました。最初は、美術の先生を訪ねたときのことです。彼女はちょうど若い息子さんのためにモデルをつとめていましたが、驚いたことに、少年は消しゴムを使わず、みごとに先生の性格をとらえていました。わたしは家にとんで帰り、すぐさま彼をまねて、一本の線も消さずに肖像画を描こうと試みました。苦心惨憺のすえ、とうとう描けるようになったときは、「これで僕もレオナルド・ダヴィンチに並んだぞ」と心の中で叫んでいました。15歳くらいのとき、ちょうど友人がのダヴィンチの作品集を貸してくれたころの話で、天才のデッサンをこれほどたくさん目にしたのは、もちろん初めてでした。それで、何日かかけてデッサンのすべてを模写しましたが、われながら、その出来映えには感心したものです。

二つ目の出来事は、戦後のハノイで暗い夜道を歩いているときに起こりました。チェロの先生と一緒でしたが、先生はわたしにこう言われたのです。「美術を本気で勉強するつもりなら、外国に行ったほうがよいですよ」と。70年代のベトナムには、純粋に画家として生活している人は、まだいませんでした。絵画は政治のプロパガンダに用いられる程度にしか見られていなかったのです。わたしはよくできる生徒で、数学と物理はトップクラスでしたから、1976年、モスクワ大学で物理学を修めるよう、政府から派遣されることになりました。

 モスクワでは、しばしばプーシキン美術館とトレチャコフ博物館に足を運びました。ペテルブルグには、エルミタージュ美術館やロシア美術館があり、いずれも超一流品が展示されています。わたしは、冬休みと夏休みのすべてを、絵を描くことに費やしました。静物画、友人の肖像画、風景画。こうして描きためた絵を、モスクワのスリコフ美術大学の先生に見てもらったところ、彼女は、「もし物理学の勉強をやめ、わたしのクラスに入れば、かならず一流の画家にしてあげます」と言いました。けれども、わたしは政府留学生の身分で物理学を勉強している以上、これをやめるわけにはいきません。結局、独学で画家になるしかないと決心しました。それからは、週末ともなるとプーシキン美術館に通い、傑作のかずかずを鉛筆で模写しました。そこではまた、印象派と後期印象派の絵画に初めて接することができました。その画家たちにならい、わたしも十年近く、戸外でキャンバスに向かったものです。モスクワではまた、何回か個展を開くこともできました。

1985年、わたしは原子核物理学博士号を取得してベトナムに帰国し、2年ほど祖国で過ごしたあと、1987年にふたたびモスクワへ戻り、3年後の1990年
にはモスクワ大学で理数学博士号を取得しました。このころ、ハノイの多くの美術家たちとも知り合いになりました。また、フランス語やロシア語で古典的な油絵の技術書を読み、昔の巨匠の絵画技法を勉強しはじめました。こうして、自分を表現する最良の方法を発見したのです。幻想と超現実的な描法の調和。たぶんこれは、ある程度、わたしが超現実主義の巨匠を研究した結果でもあったのでしょう。

1987年、ハノイで国際絵画展が開催されたとき、わたしも2点応募しました。いずれも裸婦を描いたものです。このときまで、ベトナムでは美術はきびしく検閲され、裸婦像などはいっさい禁じられていましたが、1985年のドイモイ(刷新)政策によって、このタブーも見直されていました。わたしの1作「春の霊感」は、再審査の結果、審査委員長が1票を追加してくれたおかげで、ようやく展示されることになりました。委員長は、もっとも気に入った作品に規定外の1票を投ずる権利があったからです。この絵は、ヌードモデルが、イーゼルの横に立つ画家へ寄り添うかたちの構図です。国際展の初日に訪れたソビエト大使館の文化担当官は、これを仔細に観察したようです。そして、画家の机の下に、レーニンの肖像画で飾られた小冊子『何をなすべきか?』を見つけてしまいました。その机がヌードモデルの膝と同じ高さだったので、彼は国際展の組織委員会に文句をつけました。「レーニンの肖像画で飾られた本が、あまりにも低く描かれている。これでは、ヌードより劣っていることになる!」と。わたしの仲間の画家たちは、組織委に迷惑がかからないようレーニンの肖像画を消したほうがいい、と忠告してくれました。たしかに以前だったら、わたしは当局とトラブルを起こしていたにちがいありません。けれど、時代は変わっていました。ところでこの年、わたしはベトナム美術協会(VFAA)の会員になりました。これは、ベトナムにおける、画家および彫刻家がメンバーとなる、もっとも権威ある団体です。1991年、わたしはハノイにできたVFAAの新しい展示会場で、70点を出品して個展を開きました。

1992年このかた、わたしはさまざまな国に住み、特別研究員の身分で働いてきました。来日したのは1994年ですが、大いなるジレンマに悩みました。「物理学者たるべきか、画家たるべきか……」。そうして得た結論は、「よし、両者でいこう」でした。特別研究員としての仕事に、日中のすべてを費やす。夕方と週末は、絵を描く。妻と息子は、モデルをつとめてくれ、批評家となり、最初の鑑賞者ともなってくれています。1997年、わたしは現在住んでいる和光市の中央市民会館で、日本の友人と二人展を行ないました。2001年には、米国ダラスのテキサス大学、ミシガン州立大学、パリのノートルダム大学で、「画家への道」と題して、自分の絵について講演しました。さらにこの年、日本で初めての個展も開催でき、貴重な経験を得ました。会場は和光市の「サンアザレア」。ここは最新式の会場で、オープニングは100人もの人でにぎわい、みな日本で初めて個展を開いたベトナム人を祝福してくれました。東京での最初の個展は、2002年、銀座の「ギャラリー・しらみず美術」で開きましたが、そこでわたしは写真家の長見有方氏と出会いました。本画集の写真は、すべて彼の手をわずらわせています。

2002年からは、日本の大規模な公募展に応募しています。たとえば、2002年は第70回独立展、2003年は第39回主体展。最近は、約300人の中から「佳作」16人のひとりに選ばれました。また2004年には銀座の日動画廊から招待を受け、第39回昭和会展にも参加する予定です。かつて、アルバート・アインシュタインはこう言いました。「わたしは、自分の未来をあまり考えないことにしている。いずれやってくるのだから」。これこそ、今までわたしが生きてきたライフ・スタイルです。幸いにして、わたしの人生は、科学と美術を学ぶ機会に恵まれ、これを生き甲斐としてきました。

わたしは今、新しい絵画を始めたところです。ただ、それを何と名づけたものか、いまだに決めかねています。             

(田中一生訳) 

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