大いなる学問と芸術への道

 

グエン デイン ダン

理化学研究所・仁科センター研究者

 

 

わたしは5歳で絵を描きはじめたが、もしもベトナムに生まれていなかったら、物理学者としての道を歩んではいなかっただろう、時々そう思う。

 

チェロを習いはじめたのは12歳のころだった。兄の友人にレッスンを受けたことがあったが、かれは音楽の代わりにわたしに哲学の講義をしてくれた。あるとき、戦後のハノイの暗い通りをあちこち歩きながら、かれはわたしにこう言った。本気で絵をやりたいのなら外国へ行かなくちゃだめだよ。そのころ、ベトナムでは画家というのは職業とみなされていなかった。造形芸術は単に政治的プロパガンダの道具として、共産党や国に利用されていたのだ。学校の成績は優秀で、特に物理と数学が良かった。大学の入学試験では全国で最高点を取った一人だった。その結果、わたしは国費で留学できることになった。どこでなにを学びたいのかと聞かれた。わたしが選んだのはモスクワ大学と物理だった。1976年の秋、モスクワに行き、モスクワ大学物理学部に入学した。

 

モスクワは、プーシキン美術館、トレチャコフ美術館といった世界でも最高レベルの美術館を訪れるチャンスをわたしにくれた。レニングラードのエルミタージュ美術館やロシア美術館にも一度となく足を運んだ。絵の具、筆、キャンバスは、ひと月70ルーブルのささやかな奨学金でくらしていたわたしのような貧乏学生にとっても、少しも高いものではなかった。夏休みも冬休みも絵に費やした。風景画、静物画、同級生や知人の肖像画を描いていた。あるとき、スーリコフ名称モスクワ国立造形芸術大学で教えていた有名な女流画家に、わたしの絵を見てもらったことがある。彼女はこう言った。もしあなたが物理学を捨てて、わたしのもとで絵の勉強をするのなら、あなたを《大画家》にしてみせますよ。

 

物理学を捨てることはできなかった。だからアマチュア画家になることにした。大画家になれるかどうか、それはわたしにとってそれほどたいした問題ではなく、わたしにとって重要だったのは、絵を描いているときにどれほどの満足感を味わうかということだった。土日は毎週プーシキン美術館に通い、世界芸術の巨匠たちの絵を模写した。そこで印象派やポスト印象派の画家たちを発見した。かれらの手法を見習って、わたしは10年間ほど屋外(en plain air)で絵を描いていた。わたしの名は、物理学者としても画家としても同時にベトナムで知られるようになった。1987年、わたしはベトナム美術連盟に迎え入れられた。1989年、モスクワ大学で物理数学博士の称号を得て、1990年、ベトナムに帰国した。その後、ヨーロッパのいくつかの研究所で数年を過ごしたのち、1994年、妻と息子を伴って東京にやってきた。一年後に、当時理化学研究所の理事長をしておられた有馬朗人教授の誘いを受けて理研に移り、今日に至っている。

 

いま、これらの時を振り返りながら、大いなる学問と芸術への道をわたしに開いてくれたロシアに対して、また、物理学と絵画の両面でわたしの才能をのばすのに理想的な国である日本に対して、限りない感謝の気持ちでいっぱいになる。そして、十何年かぶりにロシア語を書く機会を与えてくれた日ロ交流協会にも感謝したいと思う。

 

(ロシアの語から翻訳: 中川妙子)

 

 

 

ダン画・「戸口」